本堂
中宗堂(ちゅうそどう)
大きさ十一間四面、総欅(けやき)材による紫宸殿(ししんでん)造。延宝六年(一六七八)に建立し寛政七年に焼失、寛政九年(一七九七)に再建され今日に至ります。文明七年八月(一四七五)蓮如上人吉崎退去の後、幾人かの弟子によって遺跡が守られ、又道場が設けられました。数多くあったそのような道場の内、山下道場が発展したものが今日の吉崎(西)御坊だと伝えられています。堂内には、本尊阿弥陀如来を安置し、極彩色の彫刻によって荘厳されています。
中宗堂の起こりは江戸時代、吉崎の隣村浜坂の出身の豪商で代々熱心な浄土真宗門徒であった松下吉三郎氏(京都祐西寺の開基)が、この地に蓮如様をご安置する御堂がないことに心を痛め、延亨二年(一七四五)自費をもって蓮如堂(現在の中宗堂)を造営寄進したのが始まりと伝えられています。以後数度の罹災焼失に遭いましたが昭和四十五年(一九七〇)正面十四メートル奥行十七メートルの重層造として再建され現在にいたります。昔から御廟堂(おたまや)とよばれ文明七年(一四七五)蓮如上人六十一歳のみぎりに吉崎の地をご退去されるにあたり、形見として描き残されたと伝えられる「オカタミのご真影」が奉掲されています。
念力門(ねんりきもん)
この門は天正十九年(一五九一)豊臣秀吉が京都の本願寺に寄進したもので、元治元年(一八六四)「蛤(はまぐり)御門(ごもん)の戦い」の時、兵火から本願寺の堂宇を守った由来により「火消門」とも呼ばれた名高い門であります。昭和二十三年の福井大震災後倒壊した吉崎別院の門の代わりとして、当時の吉崎別院輪番であった巨橋義信師の請により本願寺より御下附され、昭和二十四年(一九四九)十一月、百余名の信徒によって京都から二百五十km(約六十里)を十六台の荷車で念仏のかけ声と共に運ばれてきました。なお念力門の名は本願寺第二十三代勝如上人によって命名されました。
