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吉崎を知る

 蓮如上人が大津近松を出て吉崎へ向かわれたのは文明三年(一四七一)四月、上人五十七歳のころでした。

御文章によると越前加賀の国境であるこの吉崎は「年来虎狼の住みなれし山中」とある様に辺鄙な寒村であったと思われます。

 上人がここに居所を定めたのは、越前越中地方は本願寺が早くから教化を試みていたところでもあり、門徒の組織化に希望の持てる地域であったからでありましょう。また吉崎は上人とも親しかった奈良興福寺内大乗院経覚の支配地であったため、容易に事を運ぶことができたものと思われます。

 文明三年七月には吉崎山上に坊舎の建立に取り掛かっていらっしゃいますが、これらは既にこの地に門徒衆が存在していたことを示すものであります。

 上人は吉崎に赴いてから御文章の発給が急激に増え、また朝夕の勤行に正信偈和讃を依用して大衆に宗教儀礼への参加の道を開いていかれ、教化活動への熱意が窺われます。吉崎の御山上に坊舎を建立して二年余を経過したころには、道俗男女群参し、多屋が立ち並び、民家も二百軒と増え、一大寺内町が構成されていきました。しかし文明六年三月に坊舎が火災により焼失し、七月には加賀門徒が一向一揆をひき起すなど憂慮すべき問題が相次いで生じます。

 文明七年五月には加賀武士による圧迫を憂慮して門徒に十か条の制戒を提示しましたが、安泰に経営できる状態は次第に厳しくなっていきました。このため、上人は吉崎退去を決意し同年八月河内国出口へ移っていかれました。

歴史
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